2015年1月6日
人との語り合いはとても楽しい。
そして気付きが多々ある。
会話は日常の出来事だけではなく
他人の噂話ではなく
大切なのはその人の人生を感じること。
それは、ひとつの本を読んでいるのと変わらない。
いろいろな事が
ありその人の個性が光って見えるからなのですが…
その人の過去の人生に触れると
その人の本質が少しだけど感じられます。
始まりは誰でも挨拶から始まる。
「こんにちは」だったり
「おはよう!」かも知れない。
「はじめまして!」なのかもしれません。
仲良くなると会話がはずむ
弾む人には、いいえ仲良くなる人は限られています。
それでも特徴があります。
正直で素直な方はすぐ仲良くなれます。
しかしその逆で壁があったり嘘やカッコつけた表現には会話は続かない。
もちろん私も自己表現には気をつけているけど
やはり仲良くなる人は決まってこんな人が多い。
正直な人は質問にいろいろ答えてくれます。
生まれはコチラですか?から
出身地が分かり
兄妹は?で育った環境が感じられる。
学生の時は何をされていたのですか?で
青春の時の様子も感じる。
そんな些細な会話でもその人を感じられる。
何に努力していたのか?
何を目指して生きていたのか?
そんな部分は言葉に出てきている。
きっと言葉は、その人の考えが
象徴されているのかもしれない。
仲良くなれば
楽しいコトや辛いことも語り合えます。
セラピストという職業は辛い話を聞くことが多いのですが
そんな役割でも私は楽しいい話も同時にしています。
その人を知るために…
もちろん辛いことや悲しいことも大切ですが
楽しかった話も記憶に残る経験なども
実はその人の本質が見えてきます。
年齢を重ねた人は
その人の生き方の癖が見えることがあります。
それは考え方の癖でもある。
行動も判断も考え方も
実はその人なりの理由がしっかりある。
動けない理由も…
私のような人間は興味があれば知りたがる。
小さい時に「なに?これ何?」そんな衝動が誰もがあるが
小さい時になかったからか?
おとなになって興味があれば、
こそこそ気になって調べ尽くす。
それが今の私かもしれません。
人といても、わからないことは分からないという。
それは何?と平気で聞ける。
しかし分からないことを、
わからないと言えない人もいる。
人それぞれの価値観のようです。
そんな個性が皆あり、
もちろん私も持っている個性である。
しかし、知り合いで
対話を続けると、
私と違う性質なのだと感じることもあります。
基礎的な部分から違う考えを持っています。
興味があるとそれを調べつくして形に残し作ってきた知人。
興味はあるけど、作るという概念がない人。
それが私。
そその差は大きい。
知りたいだけの人間と形に残す概念を持つ人間の差は大きい。
それが大人になって大きく考え方行動の仕方でも変化していると
対話でも感じます。
些細な判断や些細な考え
様々なそれぞれの思考は本人にとっては
しっかりとした理由があるという事でもある。
何が正しいのか
何が間違っているのかは無いと理解も出来る。
良く、憧れの人や尊敬する人と出会うと
人は影響されるという。
誰もがはじめは身近な大人でもある親なのかもしれません。
しかし親に対して、あれ?と思う時
親の言葉は反発に変わり変化は難しい。
良く言えば
自我が育ち親から学び親を持つのではなく
個性である反抗期でもあり
親を超える学びへの瞬間なのかもしれませんね。
そして社会に出て
何かしら憧れや
すごい人と出会い影響を受けたりしつつ
前に進んでいるのかもしれません。
自分の成長や学びなの為に
情報も含めて様々な人やモノを感じて
出会うのかもしれません。
すごい人や憧れる人だから学びがあるのではなく
最近では自分とは違う性質や考えの思考を持つ人と話をしても
多くを感じます。
私は何かを作るというより
”知りたい”という性質を持っているようです。
しかし知り合いの人は”作る”という性質を持っている。
その二人が出会う時
何かを得ようとしたなら、《学び》
知りたいから作るになるのかもしれませんね。
同時に、片方も作るだけではなく
何かを知る感じる気づくになるのかもしれません。
昔は自分と違う人を避けるなんて言葉がありますが
1部が同じと共鳴しても全てが同じであることなどはなく
結局違いを見つけて理解し合うことが
友人でも、知人でも、
パートナーにでも言えることなのかもしれませんね。
だからかな?
私の回りには様々なジャンルで
様々な性質を持った思考の持ち主がいます。
職業も専門知識も違います。
だから相談しても面白いし
会話しても面白いのかもしれません。
自分と違うから面白いですね。
自分と違うから避けたり逃避するのではなく
違うからこそ大きな学びや気付きがあるのかもしれませんね。
私には1つのパターンがあります。
はじめて会った時
いかにお互いが正直で素直な関係の時間を過ごせたか?
その瞬間から仲良くなれるか縁なども感じてしまいます。
すると気がつけば
正直で素直な人に囲まれているような気がします。
たまに話す対話は奥深く学びが大きいのかもしれませんね。
そんな人との関わりの楽しさを手にしつつ
8日からイタリアに出かけてきます。
私とはまったく性質の違う女子友です。
言葉が通じないので今回のブログに表現した性質は感じ取れません。
しかし挨拶だけは関わる人にしっかりしたいと思います。
チャオ!グラッチェ!ペルファボーレ!
挨拶は大切ですもんね。
2015年1月5日
素晴らしい時代と想うのは
欲しいものが安く簡単に手に入ることと
自分自身の管理が数値化される時代であることです。
オーラとは何だ?と思う時は測定器が欲しくなる私。
血液を調べていると見たくなる私。
心は何処から?と調べると脳にたどり着く
そして、脳内の状態を調べたくなる。
そして過去にはαやβがわかる測定器をGETした。
それでも数年前なので高い。
GETしてもそれをデータにしたいとか思うと又大変になる。
そしてどこかで諦めが肝心で心の保留箱にしまい込む。
個人で向かう先は限界もあればキリがない
だからあえて、何処かで諦める。
そしかし何かのスイッチで再び目覚めて
興味は再稼働する
そんなこんなの繰り返しで永遠につづく
それは探究心
その求めるものが
個人で手に入る時代でもあると最近は知る。
そしてココで聴診器や心拍に興味が出てきて
そこから、再び酸素濃度が気になる。
それが年末のことでした。
Amazonという場所は
どんなジャンルも商品として扱っている。
そして時には安く提供されている代物も存在している。
ただ、膨大な品物が存在しているので
興味があるものがあり
やっと検索できる。
過去には高くて手が出せないものが
数年過ぎると価格もお手頃になり
そして機能もスマホの開発で
データーまで取れたりします。
携帯のスマホはパソコンと変わらない。
そして今回は酸素濃度
コチラはスマホと連動ではないが素晴らしい
数年前は数万したと
病院から手に入れた人の話を聞いたことがある。
しかし今は1万もしない。
素晴らしい時代です。
そう
私は子供の時から喘息でした。
しかし、喘息になる時は病院に行けず
苦しい夜を迎え乗り越えてきました。
そして大人になり、
自分の症状を検索すると喘息と知るのでした。
喘息は危険な病気です。
しかし、ひどくなる前に応急処置をすると楽になります。
私だけかもしれませんが、喘息などはココ数年出てなかったのですが
この酸素濃度を手にしてすぐ風邪を引いて
咳が止まらず、そこから軽い喘息になりました。年末のことです。
2割ぐらいの喘息です。軽症
感覚的にも苦しさやら、つまり感を感じます。
そして計測するとその酸素濃度計にちゃんと数字として出ています。
私のようにおとなしく出来ないと
少しぐらいなら気のせいかな?とか
何とか勝手に治るでしょなんて思うことのほうが多いのですが
このように数値に出てくると身体は正直だと知ります。
いつもは99の酸素濃度は97や96になることが多い。
そしてその負担が心拍に現れて、
通常の心拍より多くなるのです。
体力が消耗するとはこのことですね。
医学に携わる人からしたらあたりまえのことでしょう。
しかし、大切なのは病院で言われる言葉も大切ですが
自分自身が今の体の状態を理解して気遣い
健康管理をすることが出来る人が
望ましい時代のように思いました。
もしも、昔のように医者に
100%頼らなければいけない時代ではないのです。
薬に100%頼らないといけないことではない時代なのです。
もちろん頼らないといけない病気もありますが
基本である健康管理は、
現代では自分である程度できるのかもしれませんね。
山登りをする時に軽装ではなく準備をするように
私達はこの時代の文明に囲まれている事を
理解しなくてはいけないのかもしれません。
スマホ
たかが携帯と思うのではなく
高価な機能を備えたminiパソコンだと私は思っています。
動画、検索、音楽、通話、Mailなど何十年前には考えられ無いものを
私達は一人にひとつ持っている。
身につけている現実が
活用しなくてはと思う今日このごろでした。
今回の酸素濃度計は関係ありませんが
ぜひ健康管理は万歩計も含めて自己管理を
そして、自分で自分を気遣う体力・健康チェックなのかもしれませんね。
喘息持ちの方、体力の無い方は
ちょっとおすすめの酸素濃度計でした。
心拍も出るので、わかりやすいですよ。
私はすぐに動き出すと心拍は上がりだし
心拍が上がり過ぎると
有酸素から無酸素になるって知っていますか?
びっくりでしょ。
知らないのは私だけかもしれませんが
無酸素は心拍にも負担をかけます。
しんどいのはちゃんと理由があるんですね。
酸素は人間にとって大切なモノです。
喘息の方は無理をしないでくださいね。
不思議なもので
興味があるとまず自分から問題が起きて
自分実験が始まります。
喘息の音
それは身体が泣いている。
悲鳴を上げる様に状態を表しています。
しかし、聴診器ではじめて聞き取れたりもします。
心と体は繋がっているから健康管理も大切ですね。
そんな年明けの自分観察でした。
2015年1月1日
新年 あけましておめでとうございます。
2015年新しい年がやって来ました。
昨年中はメンタルの書籍を通して
多くの方からのメッセージをいただきました。
とても嬉しく同時にモチベーションを頂いたのは言うまでもありません。
心より感謝しております。
ありがとうございました。
何を残すべきか?
何を伝えるべきなのか?
いつも常に考えております。
そして同時に、誰に伝えてゆきたいのか?
その様なことを想いつつ
表現者として考えております。
その気持ちが伝わる人には
何かを感じ伝わっている事に手応えを感じた
昨年でもありました。
今年は遅れておりますが
電子書籍とSchoolでの活動をと考えております。
年末に31日”王の涙”と言う映画を見てきました。
文章で何かを伝えたい私には映画やドラマなどは
とても勉強になります。
今回の映画は”王の涙”です。
その映画は人間関係のおぞましさだけではなく
言葉や態度、そして姿勢の重要な部分に対しても
考えさせられるものがありました。
その言葉がこちらです。↓
「小さなことも無視せずに最善を尽くさなければならない。
小さ なことにも最善を尽くせば丁寧になる。
丁寧になると表に染み出て、表面に染み出てくる。
表にでて表面上明らかになればすぐ明るくなって、
明るくなると人を感動させて
人を感動させると、通常変化することになって
変われば生育される。
だから、ただ世の中で極めて真心を尽くす人だけが出て、
世の中を変わるようにすることができるだろう。」
これは論語の中庸23章です。
映画では王は暗殺を試みた人を最終的には許します。
儚くも犠牲になった人達も存在します。
しかし、その暗殺には酷さがあります。
そして何が大切なのか?根本から見つめ治す姿勢が
小さな気づいた部分から最善をつくすのですが…
そこには教育の大切さ・正しい大人の姿勢が見えました。
歴史ある文献や書籍での論語は法則を感じます。
人間の根本のあるべき姿です。
若いうちからそのような教育や正しい大人に触れていたら
何かが大きく変わっていたのかもしれません。
自分の関わりや過去を悔やむより
今から自分ができる事や正しい人であるために
努力する姿勢は重要なのかもしれませんね。
正しいとはとても難しい事でもあるから…
映画を見て
そして年が明けました。
難波神社でのおみくじは吉でした。
こそにはこう書かれていました。
「志の正しい人は更に上昇の気運。心の曲がった人は悪運に転じる」と
志の正しさとそうじゃないもの…
見栄や欲望の志では正しさとは言わない。
願い事1つが試されている気がするおみくじでした。
夢や願望
言葉にするのは簡単ですが、
その理由にはこころの姿が見えるのかもしれませんね。
神社でのお願いごと
「いつもありがとうございます。」としか言えなくなる。
そんな田中の今年の始まりでした。
今回もこのような深い学びを感じさせる映画の
お誘いをしてくれる友人に心から感謝したい。
人は映画やドラマや書籍を簡単な娯楽と捉えるかもしれません。
しかし私には多くの学びや考えさせられる1つの
気付きのメッセージとして受け取っています。
そして映画が終わると
メンタルの活動に関して見つめなおさせられる。
人間関係から見えるシナリオは学びがありますね。
しかし、生きるとは関わりに中にあるから切り離せないのも事実ですね。
そんなこんなで年が明けた2015年の始まりです。
こんな事を想う田中ですが今年もよろしくお願いします。
個人的にフェイスブックではちょくちょくUPしています。
気楽にご覧下さいね。タヌキとの日常が覗けます。
https://www.facebook.com/chieko.tana
田中千栄子